2011年1月21日金曜日

映像の目的とは

私たちの作品は観る人にとってどのような役割を果たすべきなのでしょうか。
少し長くなりそうなので数回に分けて書いていきたいと思います。

この問いは「映像とは何か」という問いに密接に関係しています。そのためこの問いは複雑になります。そして多くの人は「映画・映像のよさは言葉で表すべきものではない、表せない」というような態度をとっています。この考え方にも一理あります。映像と言葉はまったく異なるものであり、片方から片方を表すということは個人的解釈を含むために読み手/鑑賞者にとって興味を引かない場合が多くとしてあるからです。しかしこれでは、言葉は大きく制約され貧しいものとなってしまいます。そこで今回は「映像はどうあるべきか」ということについて考えてみたいと思います。

私たちは何かしらの映像作品(映画やドキュメンタリーなど)を観た後に様々な精神的影響を受けます。作品によっては観た人の人生観まで変えてしまうような「力」を持ちます。また、同じ作品を見た場合でも観た人によって感想がまったく違う場合があります。つまらない作品もあれば忘れがたい素晴しい作品もあります。作り手はこのような状況で、見る人への影響をどのように想定して作品作りに活かせばよいのでしょうか。まず私たちの実感として映像作品のもっている特徴をあげます:

(1)作品は鑑賞者にとって何かしらの影響を与える/意味を持ちうる
(2)その影響とは鑑賞者による作品の解釈 によって決まる
(3)解釈は人によって異なる場合がある

(1)は先に書いた通りです。(2)(3)は私たちは映像を「見ることによって何かを思う」ということです。ハッキリと言葉に出せずともなにか思うイメージのようなものが残ることでしょう。

 以上のことをもとに、まず考えたいのは「映像作品は全体として、鑑賞者にとって一環したテーゼを持つことがある」ということです。
私たちは映像作品を観終わったあとに何かしらの教訓を得ることがあります。例えば「人の善行は時として皮肉な結果を生むことになり、それが悪意を生む」「最終的には善が勝利し悪が負ける」といったことです。はっきりと言葉にせずとも意味を受け止め影響を受けたり、自分の言動に作品の影響をうけてハッとすることもあるでしょう。そういった作品には明示的にであれ、隠喩的にであれ、作品のメッセージが込められて作られている場合が多いと思います。勧善懲悪はハリウッドのエンターテイメント作品で多く見られるメッセージなのではないでしょうか。

ドキュメンタリーやニュースはメッセージ性が明確に表されている例であるといえます。ニュース映像がもつ意味は見るものによって異なってはその役割を果たすことができません。そのため作り手は、映像手法を工夫して因果関係を固定したり象徴的な対象を用いることで文法を構成します。

カットの組み合わせによって何らかの関係性を表す手法とはモンタージュ理論に他なりません。これによって単位的な意味を持ったシーンは作品全体としてのメッセージをサポートするように構成されていきます。これは鑑賞者にとって主張をしている、と言うこともできます。このとき映像はメッセージの代用に近いものとなります。

しかしドキュメンタリーなどではしばしばその映像ならではの表現によってメッセージとは関係のない新たな印象を受けることがあります。これはメッセージを数多くの人に伝えるための安全地帯としての表現的余白にとどまりません。この印象の発展こそが第二の解釈(ニュースなどではあってはならないものです)を表現するための展開の第一歩に他なりません。個性的なドキュメンタリーとはこの第一歩を巧みにちりばめることで受け手に解釈の幅を持たせより個人的な体験とさせています。

0 件のコメント:

コメントを投稿